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Yamatokoriyama City
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郡山城

城が語るまちの歴史 大和郡山城物語

大和郡山は大阪や京都へも近く、昔から軍事や政治の要衝でした。
この地を治めようと有力者たちは争いを続け、江戸時代、郡山藩には常に有力大名が配されていたのです。

大和を統一した筒井順慶が郡山の地に城を築く。 

村々に発生した地侍を次々と支配下に置き、大和を統一したのが筒井順慶です。順慶は織田信長を後ろ盾として天正四年(一五七六)に大和支配を成し遂げ、天正八年(一五八〇)に郡山に入城しました。順慶入城の直前から、郡山一体には市場が形成されてにぎわいを見せていましたが、この地にさらなる繁栄がもたらされたのです。

順慶には今も語り継がれるエピソードがあります。天正十年(一五八二)に本能寺の変が起こり、親しかった明智光秀より洞ヶ峠に出兵を促されますが、順慶は悩み、結局動かず日和見を決め込みます。これを「洞ヶ峠をきめこむ」といい、旗色の良い方につくという悪い意味での言葉として残ってしまいました。

郡山城
天正8年(1580)に筒井順慶が築城。
明治6年(1873)建物を取り壊されるが、昭和58年(1983)に梅林門、昭和59年(1984)に追手隅櫓、昭和62年(1987)に追手向櫓がそれぞれ復元された。
筒井順慶 1549~1584
天文18年(1549)生まれ。織田信長の援助を受け、松永久秀を信貴山城に滅ぼす。その後、天正8年(1580)に大和守守護職を与えられ、大和一国を支配することになり、郡山に城を築く。
五輪塔覆堂
順慶の墓所。優れた建築意匠をもつ近世初頭の墓堂。

豊臣秀長の施策によりまちはおおきな発展を遂げる

豊臣秀吉の弟である豊臣秀長は、筒井家の後を引き継ぎ、天正十三年(一五八五)に郡山城に入城しました。秀長は、優秀な実務派であり、秀吉の参謀役として数々の功績を立て、郡山に入ったときは、大和・和泉・紀伊の三国、百万石を領有しました。

秀長の入城後、郡山は政治的、経済的に大きな意義をもつようになります。百万石の領主にふさわしい城郭を構築するとともに、箱本十三町といわれる新しい自治制度を始めました。奈良での商売を一切禁止し、近隣の町からも商人・職人を呼び寄せるなどして商業を郡山へ集積させました。そして様々な大事業を成し遂げたものの、秀長は五十一歳で死去し、在任期間は六年余りという短い期間でした。

大和郡山市には、筒井順慶や豊臣秀長ゆかりの社寺をはじめ、縄文から弥生時代にかけての遺跡、大和朝廷が成立したとされる四世紀頃の古墳、平城京の一部であった羅城門遺跡など数々の遺跡が残されており、いずれもロマン漂う大和郡山の歴史を物語っています。

春岳院
秀長の菩提寺。狩野貞信の作である秀長の肖像画や、箱本制度の資料文献などが残されている。
 豊臣秀長 1540~1591
豊臣秀吉の弟であり、筒井定次の伊賀移封の後、郡山城に入り、大和・和泉・紀伊3国を治めた。以後、郡山は大和の政治、経済の中心として大きく発展する。
大納言塚
秀長の墓所であり、遺骨が埋葬されている。木に囲まれた土壇の上には立派な五輪塔が立ち、秀長の法名が刻まれている。大和郡山市指定の史跡として保存され、観光名所としても名高い。
稗田の環濠集落
村の周囲に濠を巡らせ藪で囲まれている集落。外敵を防いだこの遺構は、現在もほぼ完全な形で残されている。

金魚や養蚕を持ち込み、繁栄をもたらした柳沢吉里

豊臣秀長の没後は、水の勝成や松平忠明、本多正勝など領主が目まぐるしく変わりました。そして江戸時代、郡山繁栄の立役者として活躍したのは柳沢吉里です。吉里は、貞享四年(一六八七)に柳沢吉保の長男として江戸上屋敷に生まれました。宝永六年(一七〇九)、吉保の後を継ぎ甲斐守として甲斐城主となり、その後将軍吉宗の命を受け、大和、近江、河内、伊勢の四カ国を領します。そして享保九年(一七二四)、郡山に入城し郡山城主柳沢家初代となりました。

甲府藩において、柳沢吉保・吉里父子は、甲府城の修築工事をはじめ、都市整備や施設建設を行い、物資の流通も活性化させたことによって、近世甲府城下に発展と繁栄をもたらしたといわれています。吉里の郡山転封の際には、領民は年貢を完納し、旧城主を見送る人々が後を絶たず、家臣とその家族を含め五二八六人が移住したとされています。

吉里は、郡山に養蚕を持ち込み奨励し、経済を振興させました。また、趣味で飼っていた金魚も運んだことから、この地での金魚養殖が始められるようになり、幕末の頃には下級藩士の副業として、明治維新後には職録を失った藩士や農家の副業としてさかんに行われるようになりました。この営みには郡山藩最後の藩主、柳沢保申の惜しみない援助があったとされています。そして現在、大和郡山の金魚養殖は日本で最大の産地として発展を遂げました。

また、柳沢家郡山藩は藩主をはじめ藩士にも文化人が多く、家臣の一人柳沢里恭(柳里恭・淇園)は、武士であり画人としても知られています。吉里自身も優れた文人であり、画は狩野洞郁に学びました。現在、代々藩主の自筆の書跡をはじめ、大和郡山市指定文化財の書画など数万点以上にのぼる古文書類を収蔵した「柳沢文庫」が設立されており、市民をはじめ研究者などのために幅広く公開され、地方史誌専門の図書館として役割を果たしています。

このように様々な分野にわたり長じた才覚を示した柳沢吉里は、郡山を大和の国における経済・文化の中心地へと導き、柳沢家は明治維新までの百四十七年間、六代にわたって郡山藩政を担いました。その文化と地場産業の礎は現代に受け継がれ、市民生活のなかに脈々と息づいています。 

柳沢吉里 1687~1745
父吉保の家督を継ぎ甲府城主となるが、享保9年(1724)、将軍吉宗の命を受け、大和、近江、河内、伊勢の4カ国、15万石余りの大名として郡山に転封される。その後、大和における経済・文化の中心地として郡山繁栄の礎を築いた。
(財)柳沢文庫
柳沢家に保存されていた旧郡山藩主の公用日記類をはじめ、大和郡山市指定文化財の書画など数万点に登る古文書類を収蔵。地方史誌専門の図書館として、市民や研究者に幅広く公開されている。