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平成30年11月 大和の誇り忘れるべからず~市長てくてく城下町

大和郡山市長上田清市長のサイン画像

先日ある本屋さんの明治150年記念コーナーで『大和維新』~新政府に独立運動を仕掛けた男~という本に出会いました(植松三十里(みどり)著)。
 主人公は今村謹三(1851~1924)で、大和郡山市ともゆかりの深い人物です。
 今の安堵町で代々庄屋をつとめる家に生まれた謹三が若くして庄屋になってまもなく、奈良県は明治9(1876)年に堺県に合併され、さらに明治14年には大阪府に吸収合併されてしまいます。
 その年、謹三は大阪府会議員に選出されますが議員の数は人口比だったため、道路の整備や災害の復旧など、予算の配分で大和はことごとく不利な状況に追い込まれていきました。
 そうしたなか謹三らを中心に進められることになる奈良県再設置運動は想像を絶する苦労の連続で、東京まで行くにもまずは人力車で大阪に出て小船で兵庫に渡り、蒸気船で横浜に向かわなければならず、しかも政府に面会を申し入れても時には1か月も待たされるという始末でした。
 何度も何度も挫折し、あきらめかけた運動が実ったのは明治20年11月4日のことで、裁可した伊藤博文の署名は奈良県の財産です。
 その後、謹三は初代奈良県議会議長、衆議院議員を経て実業家に転じ、京都・奈良間の鉄道敷設や奈良県農工銀行の創設、あるいは近代の郡山を支えた郡山紡績の立て直しなど大活躍をします。
 ところで謹三が10代のころ面識のあった国学者の伴林(ともばやし)光平(みつひら)は尊皇攘夷に関心の低い郡山藩を批判する垂れ幕を郡山柳町の大門(おおもん)に掲げ、直後に天誅組の変が勃発。『大和維新』では、これに参加し、その後処刑された光平が謹三に残した言葉を「大和の誇り忘れるべからず」としています。
 謹三をはじめ、当時の人たちの苦労が今につながっていることに
感謝しなければと思います。