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まちかどレポート508 再発見ウォーク「外堀跡から郡山天守台へ」

再発見ウォーク「外堀跡から郡山天守台へ」
(平成30年3月2日掲載)

今季最終の再発見ウォークは城下町に帰り、この町に暮す人たちの足元に置かれている石碑を巡って歩きました。2月14日、雛巡りも近いことを感じさせる陽射しの中、130人余りの人が来られました。

【当日のコース】JR郡山駅~広島下池(外堀周遊)~大職冠神社~社会福祉協議会(昼食)~郡山城天守台~城下町~JR郡山駅


盆梅展会場の入り口に、小野十三郎さんの「ぼうせきの煙突」の詩碑が置かれています。
「たそがれの国原に ただ一本の煙突がそびえている 大和郡山の紡績工場の煙突である-」
十三郎さんは、明治の終わりの幼少期に郡山で暮した詩人で、この詩が詠まれたのは戦後間もなくとか。詩碑のある城跡からは今も郡山の町が広がっています。戦火の癒えた静かな町に、ぼうせきの煙突が一人孤高に佇む姿が見えたのでしょうか。この詩は近代郡山を象徴する大切な財産といっていいでしょう。


この日の最初の石碑は、JR郡山の駅の近くの「大日本紡績郡山工場跡」の碑。碑のある場所は工場の正門があった所で、今は旧公団住宅の建物が建ち並んでいます。
ここで紡績工場が操業を始めるのは明治26年、操業を終えるのは昭和39年の東京オリンピックの年、十三郎さんの詩にあるように工場の姿はそのまま郡山の近代の姿なのです。
(昭和10年当時の紡績工場の写真が、市のホームページ内の「こおりやま写真館」にあります)


JR郡山駅での朝の集会風景。市長の挨拶の
「郡山の外堀は全国の城下町の中でも、よく残っているところでしょう」
の言葉に背中を押されて、郡山の外堀の跡を訪ねて歩きました。

戦国時代の終りにこの町が生まれたとき、外堀は町の形と大きさを決めたのです。そして江戸時代を通じて、ほとんどそれは変わることはなく、長閑な城下町風景になるのですが、その後の町の発展で、道路や住宅地、病院やマンションに姿を変えていくことになります。
この日、再発見で歩いた町の東部から北部にかけては、市長の言葉の通り昔の姿がよく残されているところ、冬枯れの季節とは違う去年の夏に撮影した写真で辿ってみました。


鍛治町の高付上池。ここは古い外堀の姿が残っている所なんですが、今、JR郡山駅から外回り線に出るバイパス道路の計画で、姿を変えようとしているそうです。市街地の歴史遺産をそのままの形で残すのは困難なことですが、この場所の外堀の記憶は残して欲しいものです。


広島町下池(左)と小川町裏池。郡山北小の東と北を巡る水路で、郡山の外堀が一番残っているところ。


正願寺上池(左)と代官池。正願寺上池の向こうに見えるのは森精機、代官池は近鉄の線路の西側。この二つの池は、大雨の時の洪水対策の貯水池として防災施設に姿を変え、市民のために頑張っていました。


金魚池の広がる尼ケ池下池(左)と尼ケ池。尼ケ池の畔の洋館はレストラン「ベンケイ」。
このあたり、外堀が郡山の町中の美しい景観となっているところです。


写真はこの日の最後の「郡山小学校跡」の碑と、矢田筋の小学校の正門跡。石碑の冊子に当時小学校は全校児童2千人を超すマンモス学校で、木造の大きな校舎が6つあったそうです。学校が南小と西小に分割されて場所が移されるのは昭和46年で、ちょうど半世紀ほど前のこと。郡山の町で育ったシニア世代は、ほとんどの人がこの学校に通っていたのでしょう。
(市ホームページの「こおりやま写真館」に当時の小学校の全景写真があります)

(まちかどレポーター 佐藤)